チェコではクリスマスにサンタクロースではなく、幼子イエスが子供達に贈り物を持ってくるのが伝統です。
今回はこの幼子イエスに関連したお話をしようと思います。

勝利の聖母マリア教会
Autor: VitVit – Vlastní dílo, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=44366802
プラハのマラー・ストラナには勝利の聖母マリア教会があります。ここは地味ながら世界的に有名な巡礼教会です。
プラハの最初のバロック建築と思われるこの建物は1611年から1613年にかけて建築されました。
建築家は不明ですが、帝国建築家ジョバンニ・マリア・フィリッピがその構想を完成させたと考えられています。
名前の由来は、30年戦争の時代にさかのぼります。
1620年11月8日、プラハの西にあるビーラーホラ(白い山)でボヘミア王国のプロテスタント反乱軍と、ハプスブルク家が率いるカトリック帝国軍が戦いました。
ローマから派遣されたスペイン人のカルメル会士ドミニク・ア・イェス・マリアは、教皇の公使としてボヘミア領にやってきますが、聖母被昇天の祝日にカトリック勢力の勝利を幻視します。
そして旅の途中、反乱軍に略奪されたストラコ二ツ城を訪れ、破損したキリスト降誕の聖母の絵画を発見するのですが、ビーラーホラで戦闘が始まると彼はその絵を首からぶら下げて馬に乗り、十字架を手に詩篇の一節を叫びながら兵士を励ましていきました。
結果、見事カトリック軍が勝利するのです。
皇帝フェルディナンド2世は、この戦いで勝利に貢献した裸足のカルメル会騎士団に褒美として1624年、教会を寄贈しました。
その際「三位一体教会」は皇帝が信奉していたパドヴァのアントニウスと勝利の聖母マリア教会と改名されます。
この教会にはドミニクが祈りを捧げた聖母マリアの複製画が置かれています。
ドミニク・ア・イェス・マリア

聖母マリアの銅版画
さて、この教会が有名な巡礼教会というのには理由がありまして、
そこに「プラハの幼子イエス」という像があるからです。
この像は、高さ47cmの木製で、キャンバス生地に巻かれた表面に着色された蝋が塗られています。
浅黒い顔立ちや巻き毛といった外見からムーア人の特徴が見て取れますが、これはスペインからやってきたからです。
右手は祝福のシンボルとして、上に挙げられ、左手には世界の支配を表す十字架のついた皇帝の金のリンゴを持っています。
プラハの幼子イエス
Autor: http://en.wikipedia.org/wiki/User:Szalas – http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Infant_Jesus_of_Prague.jpg, CC BY 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3528747
幼子イエスは1556年、ボヘミアの貴族ペルンシュテイン公ヴラティスラフ二世へ嫁いだ、スペイン貴族マリア・マクシミリアナ・マンリケ・デ・ララによって、この国にに持ち込まれました。
娘、ポリクセナがロジュンベルク家のヴィレームと結婚する際には、彼女へ譲渡します。
ヴィレームの死後、ポリクセナは2度目の結婚で、ロブコヴィッツ家のズデニェク・ヴォイチェフ・ポペルとの間に息子を授かりました。
この像は代々娘に譲られることになっていたため、ポリクセナは、夫の死後1628年にこの教会のカルメル会修道院に寄贈します。
この修道会は非常に厳しく、托鉢のみで生活し、その日に食べるのも苦労する事が非常に多かったようです。貧困が極限に達していた頃、ポリクセナは幼子イエス像を差し出し、こう言いました。
「最も大切なものを差し上げます。この像を尊べば、もう不幸に苦しむことはありません」
マリア・マクシミリアナ・マンリケ・デ・ララ
ポリクセナ
30年戦争中である1631年、プラハはサクソン人に占領されますが、カルメル会士たちは修道院からの脱出を余儀なくされます。
その際幼子イエスは破壊され、捨てらてしまいれますが、1637年には修道士たちはプラハに戻り、ツィリル神父が両腕が折れているこの像をガラクタの中から発見しました。
彼の夢の中で、イエスは語りかけます。
「私を憐れめば、私もあなたを憐れみます。私に手を与えれば、私もあなたに平安を与えます。あなたが私を尊ぶなら、私もあなたを祝福します。」と。
そこでツィリル神父は寄付を募り、幼子イエスのための新しい手を作ってあげました。
その後、何度か修道院が疫病や略奪の危機に瀕しますが、幸運にも危険を免れることができたことから、奇跡を起こす像であると評判になっていきます。
その奇跡の効用は特に子供の治癒に効果があるようで、重要な巡礼地となっていきました。
像のコピーは多くの地に広まっていきます。
最も巡礼者が多いのはその起源であるスペイン、そしてイタリア、中南米、フィリピンです。
つまりスペインの植民地が多いってことですよ。宣教師が信仰と共に像を持ち込んだんですね。
2009年にはローマ法王ベネディクト16世が訪問し、これにより世界中から巡礼者がやってくるようになりました。
幼子イエスは専用の祭壇と王冠があり、年間を通して豪華な法衣を次々と身にまといます。その一部は、教会内のミュージアムで見ることができますよー。

法衣の多くは信者からの贈り物で、約300着の法衣で構成されています。
現存する最古の法衣は、皇帝フェルディナンド3世から贈られたもので、1754年には女帝マリア・テレジアがイエズス会に手刺繍のドレスを贈りました。
教会暦に支配されたそれぞれの典礼期間の色に合わせ、カルメル会のシスターたちがイエスの服を着せ替えます。
基本の色は4つです。
白はイースターやクリスマスの季節に使われ、栄光、純粋さ、神聖さを表します。
赤は聖週間、聖霊降臨祭、聖十字架の祝日のために使用され、血と火の色を表します。
紫は、四旬節やアドベントの季節の懺悔の色です。
緑は生命と希望の色を表し、特に典礼が無い時期に選ばれることから、最も一般的な色となります。
5月の第1日曜日には、戴冠式が行われ、その際、幼子イエスは司祭館に展示され、至近距離で見ることができます。こういった特別な行事のときにはまた別の服を着るようです。

勝利の聖母マリア教会内のベツレム
ちなみにチェコではクリスマス近くになると教会や広場などで、クリスマスツリーと共にベツレムと呼ばれるキリスト降誕の彫像があちこちで出没します。
面白いのはこの教会の内部のベツレム、ゆりかごの中にキリストがいないんですね。
不思議に思って反対の祭壇を見ると、「プラハの幼子イエス」が立っています。
推測ですが、その場所にすでに幼子イエスがいるから、ベツレムに置かれていないのかなと。
小さいながらも、圧倒される像ですので、皆さんも機会があればぜひ訪れてみてください。
現在苦しんでいる人たちが、一日も早く平穏な生活を送ることができるよう私も祈りに行ってきます!
参考サイト:
https://mistareformace.cz/cs/m/kostel-p-marie-vitezne-praha
https://www.avantgarde-prague.cz/co-navstivit-kostel-panny-marie-vitezne
http://antiquesanastasia.com/religion/references/jesus/infant_jesus_of_prague/general_info.html
https://www.turistika.cz/mista/kostel-panny-marie-vitezne/detail
https://www.praguehere.com/cs/kostel-panny-marie-vitezne
https://praha.mkc.cz/?listing=kostel-panny-marie-vitezne
https://www.pragjesu.cz/historie-a-ucta/
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