聖チリル・メトディウス教会
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さて、ハイドリヒ暗殺の実行犯であるクビシュとガプチークはプラハの一般市民に匿われていましたが、最終的には別の隊員と共に、聖チリル・メトディウス教会に避難していました。
何事もなければ見つかる事はありませんでした。しかし、仲間の裏切りに会います。
別動隊のカレル・チュルダは連日の処刑報道のプレッシャーに耐えることができませんでした。
彼は出頭しゲシュタポに密告、ガプチークらを匿った家族への拷問により、場所が判明したことから1942年6月18日、教会はドイツ軍に包囲されてしまいます。
ガプチーク達が所有する武器はピストルのみでした。
ヤン・クビシュと二人の仲間はドイツ軍が教会に侵入した後、バルコニーから彼らを攻撃しました。
2時間近くの激しい戦闘の末、ヨゼフ・ブブリークとアドルフ・オパールカは弾薬を使い切り自殺、
ヤン・クビシュは、手榴弾で重傷を負いました。
ドイツ軍に発見された時点ではブブリークとクビシュは生きており、ポドリー地区のSS軍病院に運ばれますが、結局そのまま息を引き取ります。
二人の遺体は、身元確認のために教会の敷地に戻されました。
そのうちゲシュタポは地下の納骨堂にまだ隠れている人物が居る事に気づきます。
包囲側は、強力な投光器で道に面した納骨堂の小窓を照らし、催涙弾や手榴弾を内部へ投げ込みました。
対するガプチーク達は、火炎瓶を窓の外に投げ、投光器を破壊することに成功します。
そこで、続いてドイツ軍は水攻めを行いました。この作業には、チェコスロバキアの消防士が参加しています。
地下納骨堂に通じる入口は、しばらく後に発見され、ガプチーク達とドイツ軍による激しい銃撃戦が繰り広げられていきました。
しかし、どこにも逃げ場が無いガプチーク達の状況は明らかに絶望的でした。
胸まで迫る水、失われていく弾薬…。
弾薬が尽きる前に4人は、捕虜になることよりも命を絶つことを選びます。
最後に発した言葉は「Nikdy se nevzdáme! (どんな瞬間でも諦めはしない)」
だったそうです。
銃撃戦は6時間に及んでいました。
引きずり出された彼らの遺体は密告者カレル・チュルダによって確認されます。
ハイドリヒの暗殺作戦がスタートし、集められたパラシュート隊員はいずれも独身者です。
それは生還の見込みがほとんどない作戦だったためで、事実工作員の大多数が亡くなっています。
彼らを含む大量の民間人の犠牲は、ミュンヘン協定を破棄し、チェコスロバキア共和国の領土を取り戻す理由として十分でした。
チェコスロバキア亡命政府はアメリカ、イギリス、フランスにドイツが敗北した際、併合されたスデーデン領をチェコスロバキアに返還する約束をさせる事に成功します。
こうして「エンスラポイド作戦」は、多大な犠牲を払いその使命を全うしました。
現在、教会内には国家的英雄とされる彼らのために設けられた博物館があります。
聖チリル・メトディウス教会の外壁
Honza Groh - 投稿者自身による著作物, CC 表示 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4008604による
…ところで、ゲシュタポに密告したカレル・チュルダはどんな人物でしょうか。
カレル・チュルダ
彼はイギリスから1942年3月28日、2人の仲間とともにパラシュートでチェコスロバキアへ侵入しました。
プラハにあるガス工場の破壊工作や他の戦闘員への無線機の提供を目的としたこのグループは「ワンディスタンス」と名付けられます。
しかし彼らは初っ端から様々な不運に見舞われました。
彼らを乗せた飛行機は誘導ミスで予定した場所には着陸できず、降下中重要書類や作戦に使用する大量の物資を失いました。司令部は仕方なくこの部隊を解散させることにし、メンバーは分裂して独自に活動することになります。
メンバーの一人、イワン・コラジークは、使用済みパラシュートを隠している途中で、財布に忍ばせた恋人の写真と住所をまるごと紛失してしまいます。
それはゲシュタポの手に渡りますが、コラジークの写真付きの逮捕状が出されたため、彼は仲間と分離し、家族を報復から守るために1942年4月1日に服毒自殺をします。
(しかし残念ながら彼の家族もまた、ゲシュタポの犠牲に…あぁ~)
残りの二人カレル・チュルダとアドルフ・オパールカはプラハに移動し、「エンスラポイド作戦」の準備を手伝っています。
その後チュルダは母親の家に身を寄せますが、ハイドリヒの暗殺後、連日流されるナチスの報復行為を報道で知り、心理的に追い詰められていきました。
ストレスに耐えきれなくなったチュルダは、1942年6月13日にベネショフの憲兵隊駐屯地に匿名の手紙を送り、ハイドリヒ暗殺の実行犯を密告します。
しかし、なんと警察はこの告発を無視。
そこで、6月16日彼はプラハに行き、スヴァトーシュ家のアパートで匿われていた仲間を探しますが見つけられず。
同日、プラハのペツコヴェー宮殿にあるゲシュタポ本部へ出頭し、すべてを明らかにしました。
彼の裏切りによって、ゲシュタポはパラシュート部隊や多くの協力者を逮捕・処分することに成功するのです。チュルダは自殺未遂をしますが失敗します。
その後、密告の報酬を受け取りましたが、想定していたよりもはるかに少ない額だったようです。彼はカレル・イェルホトと改名してプラハに住み、ドイツ人女性と結婚して息子をもうけました。
ゲシュタポは彼を続けて工作員として利用しましたが、アルコール依存症になってしまったため利用価値が無いとみなされ、段々利用することも無くなっていきました。
終戦後の1945年5月19日、彼はマニェティーンの街で逃亡しようとして逮捕されます。
その後、死刑を宣告され、1947年4月29日にパンクラーツの監獄で絞首刑にされました。
最後の声明で、チュルダは慈悲を求めることを拒否しています。
やはり罪悪感があったんでしょうかね…。
ちなみに、私はチェコスロバキアだけが正しいというつもりはありません。
なぜならチェコスロバキアは戦後、ナチスに対する憎しみから、
国内に住むドイツ語話者に対して、以前ナチスがユダヤ人に対して行ったのと同様の制限をかけた上、住宅を剥奪し、ドイツ人を国外追放しています。その数18,072人。
この政策により、カレル・チュルダの妻と息子はオーストリアに強制送還されています。
1945年5月30日午後10時頃、チェコで二番目に大きな都市ブルノから、女性や子供などを中心としたドイツ人の集団は南のオーストリア国境に向かって55kmの行進を強いられました。
途中で約1,700人が疲労や病気、または報復による殺害により亡くなったそうです。
この事についてブルノ市議会は2001年に「ドイツ人に対するこの措置は間違いだった。」
と述べています。毎年ブルノではこの犠牲者の追悼のための巡礼行進をしているそうです。
悲劇のヒーローは美しいですが、そこにのみスポットライトが当てられるのは本意ではありません。
悲しい歴史が繰り返されない事が大事なのです。
参考サイト:
https://cs.wikipedia.org/wiki/Operace_Out_Distance
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%84%E3%82%A7
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%AD
https://english.radio.cz/lezaky-lesser-known-czech-village-annihilated-nazis-8754186
冊子 Anthropoid- the silent witnesses
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