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1942年のラインハルト・ハイドリヒ暗殺事件から80周年を記念して、プラハのリベニュ地区でその再現イベントが行われました。
再現は、実際の暗殺事件と同じ10時30分過ぎに行われ、その後、追悼式が行なわれたようです。

今年は、暗殺の記念日が「国家反抗の日」として公式に認められた初めての年になります。


ラインハルト・ハイドリヒ暗殺事件、通称「エンスラポイド作戦」は、ナチス高官の暗殺で唯一成功した作戦です。


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ラインハルト・ハイドリヒ
Autor: Bundesarchiv, Bild 183-R98683 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5665919


ラインハルト・ハイドリヒは、1941年9月28日にプラハ城に到着しました。

前任者であるコンスタンティン・フォン・ノイラート総督の統治がチェコスロバキア人に対し甘すぎるという理由で呼ばれたようです。チェコスロバキアは当時ドイツ軍の武器の多くを生産していましたが、
ノイラートの統治時代、
ストライキや抵抗運動が多発し兵器生産力が20%近く落ちていました

1941年9月27日、チェコ通信は、ノイラートが病気になり療養に出されたため、代理としてハイドリヒが指名されたというニュースを発表します。
彼は公式にはノイラートの副官でしたが、事実上の指導者となりました。


ハイドリヒの就任は、すぐさま恐怖の支配をもたらします。
就任式の翌日、彼は戒厳令を布告し、即決裁判所を設置させ、反体制派の指導者層(中産階級のインテリ層)を次々と逮捕しました。戒厳令は1942年1月20日まで施行され、合計500件近い死刑判決が下されました。さらに2,200人の逮捕者が強制収容所に送られます。

ちなみにラインハルト・ハイドリヒは、ハインリヒ・ヒムラーに次ぐ実力者だった人物で、ゲシュタポ、親衛隊保安部、刑事警察を統括する巨大警察組織国家保安本部の長官でした。

彼はユダヤ人虐殺計画の主要な遂行者で、ナチスの陰謀のほとんどに参加し、重要な政治的地位を築いていました。

彼の能力と権力、その残忍性は仲間のナチス要人たちからも恐れられ、「金髪の獣」「絞首刑人」の通り名で呼ばれていました。プラハではさらに「プラハの虐殺者」という新たな通り名を得ます。


なぜハイドリヒは暗殺のターゲットになったのでしょう。


時をさかのぼります。

ナチスドイツがチェコを保護国とした後、チェコスロバキアの政治指導者達はイギリス、ロンドンに亡命し、亡命政府が立てられました。

ナチスドイツはスラブの国からその国民を追い出し、新たなドイツ人居住地としようとしていました。それに対しポーランドやユーゴスラビア、ギリシャなどの国ではレジスタンス活動が行われていましたが、チェコスロバキアではレジスタンス活動がそれほど活発に行われていませんでした。

ロンドンの亡命政府は、国民の消極性に対する批判に直面し、連合国の大義に貢献していることを示す必要に駆られました。
そこで1941年10月初めには、ナチスの高官でありチェコスロバキアを実質支配していたハイドリヒの暗殺を決定します。

この暗殺が成功すれば、亡命先であるイギリスが再び「ミュンヘン協定」のようなチェコスロバキアの国益を損なう和平協定をドイツと結ぶことが難しくなるとも考えたのです。


まあイギリスにすれば暗殺に成功すればナチスの高官が減ることで弱体化を促せますし、失敗してもチェコスロバキアという国が地図から消えるだけですからある意味他人事ですよね…黒い。
(今のウクライナ問題も、他人ごとにしてはならんのですよ~)


ちなみにチェコスロバキアのレジスタンス活動があまり活発でなかった理由ですが、ハイドリヒはインテリ層はばっさばっさ処刑していきましたが、労働者階級には懐柔策として、食糧の配給や年金の支給額を増加させたり、チェコスロバキア初の雇用保険を作ったりしました。
また、カルロヴィ・ヴァリの温泉地などを労働者の保養地として開放する事もしたので、この階級の人達がレジスタンス活動に参加しなかったからなんですね。


「エンスラポイド作戦(類人猿作戦)」と名付けられた暗殺の準備は、1941年10月、イギリスの特殊部隊の協力のもとに始まりました。


平和で静かなスコットランド北西部のアリサーグ村、ここは暗殺の首謀者であるヤン・クビシュとヨゼフ・ガブチークが、英国特殊作戦局の訓練センターでスコットランド軍に訓練を受けた場所です。
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ヤン・クビシュ

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ヨゼフ・ガブチーク


スコットランドでの生活の後、2人はロンドン近郊で訓練を受け、1941年12月初旬にナチス占領下のヨーロッパを移動するため、偽の身分証を受け取ります。

12月28日、南イングランドのサセックスから飛行機で出発し、プラハの東にあるネフビズディという村にパラシュートで降下しました。
しかし当初予定していた場所から100キロぐらい離れていたため、
そこからピルゼンプラハと移動し、チェコスロバキアのレジスタンス関係者数人と連絡を取り合います。

彼らは数ヶ月かけて計画を練り、列車内でハイドリヒを暗殺する案と林道でケーブルを引いてハイドリヒの車を止める案の二つを考えました。しかしそれを破棄し、最終的にプラハへの通勤中にハイドリヒを殺害する計画にたどり着きます。


1942年春、ハイドリヒは
プラハ城の仮住まいからプラハの北14キロの地方、パネンスケー・ブジェジャニにあるシャトーに引っ越しました。そのため、この計画が可能になったのです。

彼は市民に威圧的に見せない様に気を配っていました。自身の乗用車であるメルセデス・ベンツをオープンカーの状態にして市民に自分の姿を見せながら走らせることが多かったようです。護衛車両をつけることもあまりしませんでした。
ヒムラーやヒトラーは警護に無頓着な彼の態度を頻繁に戒めますが、ハイドリヒは最期まで耳を貸しませんでした。そして結果的にこれが彼の命取りとなります。


ハイドリヒが毎日通っていたシャトーから城への道には、プラハのリベニュ地区で急なカーブがありました。運転手はこのカーブを曲がるためにかなり速度を落とさなければなりません。さらに、近くに路面電車の停留所があり、暗殺者がハイドリヒの車を待つ間、うろうろしていても不自然ではなかったため、この場所が選ばれました。

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1942年5月27日の朝、ハイドリヒはパネンスケー・ブジェジャニからプラハ城の司令部へ向かいました。


午前10時35分頃、ハイドリヒの運転手ヨハネス・クレインは、カーブに差し掛かりました。車が角を曲がって速度を落とした時、ヨゼフ・ガプチークが車の前に飛び出し、コートの下に隠していた銃を向けます。


しかし、なんとここで銃が不発。


この時、ハイドリヒは運転手に逃亡するため車の加速を促す代わりに拳銃を抜き、運転手に停止するよう怒鳴るというミスを犯しました。運転手がブレーキをかけたとき、ヤン・クビシュは運転手にもハイドリヒにも気づかれずに手榴弾を取り出し、車に向けて投げつけます。
(ホントかウソか分かりませんが、彼はイギリスでクリケット知り、その投法で手榴弾を投げたとか…)


手榴弾はメルセデスの車内には入りませんでしたが、後輪に当たりました。爆弾は見事爆発し、破片が車の右フェンダーを突き破って、ハイドリッヒに怪我を負わせることに成功します。しかしハイドリヒと運転手は、ピストルを構えて車から飛び降り二人を追いかけました。

運転手はクビシュに向かって走り、ハイドリヒはガプチークを追いかけます。


クビシュは手榴弾による軽傷を負いながら自転車に飛び乗り、ピストルを空に発砲して、路面電車から降りてくる乗客を追い払いました。運転手は彼に狙いを定めますが、爆発で朦朧としていたため、銃の扱いを誤り、弾が詰まり失敗。


一方、ハイドリヒはよろめきながらガプチークに近づくと、彼の自転車に手を伸ばしますが届かず。
ガプチークは柱の後ろに隠れ、ハイドリヒに発砲しました。
ハイドリヒも応戦しますが、突然痛みで体をくねらせ道端に倒れたため、ガプチークはその隙に逃げ出すことができました。


運転手は彼のもとに行き、ハイドリヒの「ガプチークを追え」との命令に応じます。その後ガプチークは肉屋に逃げ込み助けを求めますが、店主はナチスのシンパで彼の求めを無視し、通りに飛び出して運転手の注意を引きました。運転手は銃を手に店に飛び込み、ガプチークと戸口で衝突。
そこでガプチークは彼の足を2発撃ち、路面電車に飛び乗りようやく隠れ家に辿り着きました。


この時点では、ガプチークもクビシュもハイドリヒが負傷したことを知らず、作戦が失敗したと思っていました。


ハイドリヒは、現場近くにあるブロフカ病院に運ばれ、手術を受けます。

一週間の入院中、発熱と激しい痛みに悩まされますが6月3日には座って昼食をとることができるようになり、はた目には回復しているように見えました。

しかし、その後病状は突然悪化、ショック状態に陥り昏睡状態に陥ったまま回復することなく、6月4日未明に彼は息を引き取るのです。



この事件は最終的に悲劇的な結末を迎えるのですが、ナチス高官の暗殺に成功した唯一の事件という事で、何度も映画化されております。


1943年  『死刑執行人もまた死す』(Hangmen Also Die)

1943年  『ヒトラーの狂人』(Hitler's Madman)

1964年  『暗殺』(Attentat) チェコ語ですが全編無料で見れます

1975年『暁の7人』(Operation Daybreak)

2016年『ハイドリヒを撃て!「ナチの野獣」暗殺作戦』(Anthropoid)

2017年『ナチス第三の男』(The Man with the Iron heart )



ちなみにハイドリヒはプラハ城で「相応しくないものが身に着けるとと1年以内に死ぬ」と噂される、ボヘミア王の戴冠式で使う聖ヴァーツラフのの王冠を被ったらしく、その呪いで亡くなったとも言われていますね。

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ハイドリヒが襲撃された場所には記念碑が建てられています。この記念碑は、三角形の形が特徴的で、国旗をモチーフにしたものです。3人の人物が9メートルの高さに配置され、その端から奈落の底に落ちそうに立っています。3人のうち2人はチェコスロバキアの兵士、もう一人はレジスタンス活動で役割を果たした名もない多くの民間人を表しています。この形態は、レオナルド・ダ・ヴィンチの有名なデッサンに描かれた人物から着想を得ていているそうで、作戦名である「Anthropoid」(人間)にちなんでいます。像に特定の人を表す特徴はありません。それは兵士の脱人格化、戦闘のための製品としての人間の連続性を表してます。

土台も国旗をモチーフにした三角形で、鋭いエッジは屈辱と苦しみを引き起こす暴政の危険と崩壊を象徴しています。壁面には板金を使用し、荒々しさを。そしてその腐食性は、破壊され、破滅したチェコスロバキアという国家を指しているそうです。


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記念碑;Autor: Marek Blahuš – Vlastní dílo, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=26366623


下はその場所の地図

https://en.mapy.cz/zakladni?x=14.4651976&y=50.1178749&z=17&source=base&id=2080875

これは2017年のイベントですが、今年もこんな感じで再現イベントが行われた模様。



今年のイベントを発見したので追加します




参考サイト

https://english.radio.cz/anthropoid-czechoslovakias-greatest-resistance-story-8751531


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%9D%E3%82%A4%E3%83%89%E4%BD%9C%E6%88%A6


https://www.vhu.cz/muzea/ostatni-expozice/krypta/historie-operace-anthropoid/


https://www.praha8.cz/Pomnik-Operaci-Anthropoid.html






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