前回カトリックの教会は体を不潔なままにしておくことを奨励していましたが、実際はどうだったのでしょう。バグダッドのカリフの使者イブラヒム・イブン・ヤクブの著作の中には10世紀のスラブ式サウナについての記述がありました。
Lazebnaという古いチェコ語は昔の風呂屋の事です。風呂屋と言ってもサービスは多岐にわたり、医療を施し、髭も剃りました。
経営者は髭を生やした男であることが多かったようですが、場所によっては笛吹き、歌手、道化師もおり、そこで働く女性は性的なサービスもしていたようです。
ちなみにチェコでは体の具合が悪いとお医者さんがその病状に併せて処方箋を出し、温泉療養に行く伝統が今でも残っています。その場合のお風呂代は共産主義時代は無料だったそうです。
こういった療養風呂は、かつて病人が利用していた風呂屋の長い伝統から来ていると考えられます。
蒸し風呂、つまりサウナは13世紀半ばにブルノとプラハで、同時に設立されました。
人々は木でできた浴槽で入浴し、喜びのひと時を過ごしました。騎士やトルバドゥール(詩人で歌手)は、美しい乙女たちの助けを借りて、花を散らした水に身を浸しました。
やがて、入浴は上流階級だけのものではなくなり、裕福な市民や庶民の間でも一般的になっていきます。
15世紀には浴場は、社交の場となりました。風呂屋には看板が置かれ、目印にタオルや花冠、風呂桶などのシンボルを使いました。カワセミの図柄も使われたようです。
このカワセミの図柄は当時のボヘミア王、ヴァーツラフ4世のお気に入りの図柄で、プラハ旧市街の橋塔でもそれを見ることができます。
カレル橋旧市街側橋塔、Von Tilman2007 - Eigenes Werk, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=64830643
伝説によると、ヴァーツラフ4世は政治的な対立により、15世紀初頭に貴族に捕らえられ、囚われの身となりました。ある暑い日、王は「カレル橋にある風呂屋に行きたい。」と希望します。逃げられないよう、4人の監視がつけられました。王は熱いお風呂の後にモルダウ川で水浴びをすると言い、裸の王を見た彼らはまさか裸で逃げないだろうと油断をしました。王は魅力的な浴場主のズザナに頼み、ボートにのせてもらい脱走します。その後王はズザナと共に甘い一夜を過ごしたと言われています。政権を取り戻した君主は、花輪で囲まれたカワセミのシンボルと新しい風呂屋をズザナに与え、風呂屋の地位を向上させたそうです。
旧市街橋塔のそばのカルロヴィ・ラーズニェ(カレルの風呂)は現在同名のナイトクラブになっていますが、モザイクの壁やローマ式プールなどが今も残されています。
カワセミと風呂屋の娘
16世紀には、僧侶や学生による無料入浴が開始されました。
30年戦争の前まで、農民だけでなく日雇い労働者も定期的に温かいお風呂に入っていたそうです。
風呂に入る人の支払いは着るものによって決められ、職人は日雇い労働者よりも多くを支払いました。鉄工職人の場合、汚れが酷かったためか、雇用主やギルドが風呂屋に割増料金を払わなければなりませんでした。また、未亡人や幼い子供に対する社会的な恩恵もあり、貧しい人々のために、施し風呂の日があったそうです。
風呂の設備は体を洗うことを目的とした浴場と、汗をかくこととを目的としたサウナに分けられていました。まず、風呂屋は客の体を白樺の箒などでたたき、ブラシで洗い、大きな木の桶に入浴させました。お湯にハーブを入れたものが人気だったようです。温度を下げないために、その上には天蓋が張られました。
サウナはフィンランドのサウナのように、石を温めてスチームサウナのようにしていたようです。汗をかいた後はすぐに冷たいお風呂に入りました。リラックスのためか、たいてい音楽家がそこに同伴していたようです。
現在と同じように脱衣所もあり、ここで客は服を脱ぎ、貴重品を預けました。
貧しい人たちには専用の服が貸し出されましたが、裕福な人は、シーツやタオルなどを自宅から持参し身に着けました。男性は藁などでできた帽子をかぶり、女性はスカーフを巻くのが一般的だったようです。スリッパも装備の一部でした。
さらに医務室のようなものもあり、そこで歯を抜き、切り傷を治療し、カッピング(瓶を温め、背中などに貼り付ける治療法)や瀉血(体の血液を意図的に外に出すことで症状を改善させる治療法)を行いました。ここで、散髪や髭剃りも行われます。
簡単な施術以外にも医者が近くにいない場合は、助産婦や外科処理のための身体の切断などもやっていたようです。彼らは大学の教育を受けていなかったものの、外科医の先駆けといえる働きをしていました。
また、水中でわいせつな行為をしないように注意し、時には木矛で制止したり、罰金を科して介入しました。当時は混浴だったんですね。
風呂で飲食もできたようで、
Štěstí to, má milá štěstí,
v lázni horké tu jésti.
v lázni horké tu píti,
přesladké s tebou žití.
倖せよ、愛しき倖せよ、
お風呂は熱く、食べるよ。
お風呂は熱く、飲むよ、
あなたと一緒のなんて甘い生活。
という詩が残っています。
浴場は川の近くに設けられるのが普通でした。朝、バケツで水を運んできて風呂を沸かし、大きなラッパと掛け声によって風呂が沸いたことを知らせました。
初期の風呂屋の社会的地位は低く、長い間処刑人、異人種、傭兵と並ぶ不名誉な商売だったようです。
1330年、ルクセンブルグ家のヤンは、風呂屋、理髪師、笛吹き、音楽家がプラハの評議員になることを禁じています。
風呂屋の子供たちも、普通の町民と結婚ができず、苦労しました。
その後、ヴァーツラフ4世が1406年に法令を発布し、風呂屋の地位を向上させます。
風呂屋は、職人と同じようにギルド(職人の組合)に属していました。しかし、風呂屋がたくさんあるような大きな都市では専用のギルドもありましたが、小さな町では、他のギルドに入らなければならなかったようです。
それなりに儲けを出していたようで、古い記録によると、家、土地、果樹園などを所有していました。浴場は自治体の所有物で、風呂屋はそれを借りる形で営業していました。浴場を借す際、自治体が室温や、銭湯で働く手伝い人の人数を決めていました。
17世紀ごろから風呂屋は衰退していきますが、これは30年戦争を体験したことでヨーロッパの価値観が変った事によるようです。
戦争の恐怖は人々の記憶に刻まれ、軽薄な娯楽と考えられた風呂屋が徐々に消えていきました。
参考サイト:
https://www.lazebnautygraadraka.cz/historie_lazebnictvi.html
https://www.worldsbestbars.com/bar/prague/city-center/karlovy-lazne
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