Edward_Kelly

長い髪に長い髭、すらっとした長身で魔術師のような風貌を持った男性、それがジョン・ディーの相棒、エドワード・ケリーでした。

彼は1555年にイギリスのウスターで誕生しました。オックスフォードで勉強し、薬屋の助手として訓練を受けたといわれていますが不明です。もともとの名前はエドワード・タルボットですが、エドワード・ケリーに改名しています。


1582年、天使とのコンタクトに失敗を続けていたジョン・ディーの前にエドワード・ケリーが現れました。彼はディーに天使と話すことができ、鉛を金に変える方法を知っていると主張します。


彼の長い髪には理由がありました。耳を隠すためです。

と言うのも彼は文書偽造や贋金を作った罪で1580年にランカスターの処刑人によって両耳を切り落とされていました。ディーにはその理由を説明するのに


「天使の声があまりにも強烈で、耳を持っていかれた」


と答えています。

そう、彼は錬金術師というよりは詐欺師でした。他の錬金術師は彼について軽蔑的に
「彼は炉を燃やす使用人よりも錬金術について知らない」
と話しましたが、知識人のジョン・ディーは疑いながらも彼に騙されています。


二人は魔法の鏡と水晶玉を使った降霊術で有名になりました。

彼らはポーランドの王位継承について予測し、ポーランドの地を経由して、オカルトに強い関心を持っているルドルフ二世のいるプラハへ1584年にやってきました。その後大金を受け取っています。

当時、ボヘミアの地ではもう一人、彼らのパトロンになった人物がいました。

それが南ボヘミアの大貴族、ロシュンベルク家のヴィレームです。かれは高位会計係で高位城伯でした。

二人はルドルフ二世に追放されるたび、ヴィレームを頼りにロジュンベルグ家の地所であるトシェボニュやチェスキークルムロフに滞在し、保護してもらっていました。


1586年にケリーはルドルフ二世の前で赤い液体、もしくは粉末を使って水銀を金に変える実験に成功しています。
しかしこれは二重底のるつぼを使った詐欺の疑いがあるようです。


霊的な高みを目指すディーとは真逆に、ケリーはお金を求めました。そのため二人の歯車はかみ合わなくなっていきます。

ケリーが天使に、「妻を含むすべての所有物を共有する必要がある」と言ったのは、交霊術にこだわるディーが疎ましくなっていたからのようで、ディーはその出来事がきっかけで失意のもとにボヘミアの地を去ることになります。


一方ケリーはルドルフ二世の信用を勝ち取り、プラハに残ります。しかし一向に金を変成させたり、賢者の石をつくろうとしないケリーにルドルフ二世はいらだちを募らせていきました。

そこで彼は飴と鞭を与えることにしました。

まず1590年にケリーに騎士の称号を与えます。さらに莫大な報酬を与えました。ケリーはそのお金で、醸造所、製粉所、家などを購入しましたが、プラハでは2つの別荘を購入しています。そのうちの1つは、プラハの家畜市場にあった「ファウストの家」、もう一つは現在錬金術博物館になっている「ゆりかごのロバの家」と言われています。
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しかし、うまくいっていたのはここまででした。

宮廷の役人ハンクラーはケリーに耳がないことに気づき、

「イギリスで耳を切られるのは犯罪者のはずだ!」

と非難しケリーを侮辱したため、決闘に発展しました。しかしその少し前に決闘は禁止されていて、禁を破れば死刑になりましたが、ケリーはそれを知りませんでした。その結果ハンクラーは死に、ケリーは逃亡するも捕まり、クジヴォクラート城に投獄されます。
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ここで鞭が与えられました。

ルドルフ二世は刑務官を送り、錬金術の秘密をを明らかにするように尋問させました。

しかしこれは尋問というよりも、まあ拷問でしょうね。


当時、錬金術師はその秘密を決して普通の人には教えませんでした。弟子に口頭で伝えるか、暗号みたいな本に書いて秘密にしたのです。錬金術は神様の業ですからおいそれと人に教えられなません。

しかし、普通の金属が金に代わるなら、財源は確保されたのも同然。秘密にされれば猶更知りたくなるのが人間ってもんです。

結局その秘密を知ろうと貴族や王様から軟禁されたり拷問されることも多く、それにより命を失う錬金術師も数多くいたわけです。


ケリーは逃亡を図りました。高い窓から逃げようと縄を伝って降りますが、使った縄は弱っていたようで、落ちて一方の足を折り、切断しなければなりませんでした。
(麻酔のない時代に足を鋸で切られることを考えてもみてください…。)


落下から回復した後は財政難に陥いります。

ルドルフ二世はケリーを注意深く見守り、恩赦を与え、さらに実験の機会を与えました。

しかしケリーの実験は成功しませんでした。しかも借金によって追われる身に。

怒ったルドルフ二世は1596年にケリーをモストのフニェビーン城に投獄しました。

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ケリーは二度目の投獄で再び窓からの脱出を試みましたが、今度は縄が短く、再びひどく落下し、排せつ物の上に落ちてしまいます。そしてもう片方の足をも犠牲にしてしまったのです。

ルドルフ二世は、ケリーがイギリスに戻ることを禁止し、モストの城に留まることを裁定しました。ケリーは、抗うこともできず、足に負った傷の痛みもすさまじいものでした。それにより死を決断します。

彼は毒を飲んで、1597年に42歳の人生を終えました。


ちなみにケリーの義理の娘はエリザベス・ジェーン・ウェストンと言いますが、エリザベスはケリーが死んだあと、生活苦からルドルフ二世の宮廷詩人として働いています。




こぼれ話

前々回のディーの記事で、彼が実はイギリスのスパイで「007」のモデルだったのでは?と書いたのですが、一部のイギリスの歴史家によると、ケリーもスパイで、ディーと一緒にウィリアム・シェイクスピアをスパイするための訓練を行い、いくつかのプロジェクトで彼と協力する予定であったと主張しています。

伝説によるとシェイクスピアはプラハを12回訪れ、「揺りかごのロバの家」で「真夏の夜の夢」のインスピレーションを得たとの事です。


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